昨日は 寺で法話を聴聞した。
法話の主たる目的は
いかにして生きるか
いかにして死というものに直面して生きるか
ということを伝えようとしておられるように思う。
人間の欲望は尽きるところがない
どこまでもどこまでも欲望を追い求めてしまう。
たとえば食べ物でも
以前に比べて今はこんなにおいしいものを食べることができている
しかしもっとおいしいものを食べたい。
隣の人がおいしいものを食べているのでそれを食べてみたい。
旅行でも
近場よりは遠いところ、国内よりは海外 *****
欲望はとどまるところを知らない。
当たり前だと思っているのは実は ものすごく幸せなこと
たとえば
家族団らんで笑いの絶えない毎日の食事
死後の世界はあるのだろうか
御釈迦さんも親鸞さんも
死後の世界を想像して説法をしておられた。
体験談ではない。
誰も体験して帰ってこれない。
だから死というものの話は神秘的になる。
寺へ行って法話を聞くのは年寄りの仕事
ではない。 若いうちから法話を聞いて
”どうあるといいのか ? ”
という問いを投げかけながら生きていけたらいいなと思う。
キリスト教徒は老いも若きも教会へ行く。
仏教は年寄りが寺へ行く???
いろいろ考えさせてもらった法話であった。
そういう御縁に会わさせてもらえました。

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